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枕を取りに行くと言って出てきたのだ。いつまでも戻らないのはおかしい。
それは分かりすぎるほど分かっているのだが、彼女は身の丈ほどもある枕を抱えて扉の前で逡巡していた。自分からしたこととはいえ、なぜこんなにも落ち着かない気持ちになるのだろう。
そしてそれは、寝台の上に残された彼も同じだった。
彼女にはきっと他意はない。誰かに何かを聞いたのだ。そしてそれを実行しただけだ。その行為に別の意味が隠されているとも知らずに。
互いの唇を重ね合わせること。ただそれだけのことが、こんなにも二人を戸惑わせた。
ユスティニアは意を決してその部屋へと向かった。彼女の夫、アダルシャンの王弟殿下・アダルシードの寝室に。
彼も気づいていた。自分の幼い妻・ユスティニアが戻ってきたことに。そして、その足音が一瞬、部屋の前で立ち止まったことに。
いつもならありえないことだ。この幼い妻は夫婦が同じベッドを共にする意味も分からず、他愛無いお喋りと一人寝の不安から逃れるために彼の部屋に嬉々として訪れていた。迷うことなく真っ直ぐに。
それが、今日はいつもとは違う「呪い(まじない)」を彼にしたかと思うと、枕を忘れたと言って部屋を飛び出し、かなりの時間を経て、今、彼の部屋の前にいる。
妻とはいえ、十も違うまだ十二歳の子供のしたことだ。意味が分かっているとは思えない。彼は忘れようと心に決めた。
だが、彼女の様子はいつもとは違う。今だって、部屋の前にいるはずなのに入ってこない。暖かくなってきたとはいえ、アダルシャンの地はいまだ夜は冷える。薄い寝間着だけで出て行ったユスティニアを思い出し、彼は心配になる。風邪でも引きはしないかと。
心配になりベッドを降りようとしたとき、静かに扉が開かれた。枕で顔を隠すようにしながら、彼女は中の様子を伺うように静かに足を踏み入れ、そして、ベッドから出ようとしていた彼を見つけた。
「ユティ、風邪引くぞ」
アレクシードは幼い妻の顔を見てほっとして声をかけた。しかし、声をかけられたほうは夫の顔を見ることもなく、抱えた枕で顔を隠しながらベッドの近づき、彼とは逆のほうに腰をかけた。
「ほら、早く入れ。寒かったろ」
アレクシードは彼女がベッドに潜りやすいように上掛けを捲ってやった。
が、彼女はまだ枕を抱えてベッドに腰をかけたままだった。
「おい、ユティ」
アレクシードは心配になって、彼女の肩に触れた。
と、まるで熱いものにでも触れたかのように、彼女の方がビクッと大きく跳ねた。
その反応に、手を出した彼のほうも驚いて思わず手を引っ込めた。
なんなんだ?
彼には訳がわからなかった。何かに怯えるような彼女の姿に対して。自分が知らぬ間に何かしたというのだろうか。いや、したというよりされたのだが。
先ほどの行為に思い当たり、彼は忘れるように頭を振った。そして、努めて何もなかったかのように再度声をかける。
「とにかく早く入れ。風邪引く前に」
足元からじわじわと襲ってくる冷えが、彼の右肩の傷にもじくじくと染み込んでくる。
このままでは本当に風邪を引いてしまう。ほら早く、と再度強く言うと、彼女は彼のほうを見ることもなく枕を抱いたまま上掛けの下に潜り込んだ。
私は、どうしたというのだ!?
アレクシードがすでに眠りについていることを願って扉を開いたら、彼はしっかり起きていてベッドから出ようとしていた。きっと、いつまでも帰ってこない彼女を心配して迎えに行こうとしていたに違いない。彼はこの幼い妻にとてつもなく優しい。
そんな彼の姿を見た途端、ユスティニアの心臓はどくんと大きく跳ねた。そして、顔にすべての熱が集まったかのように熱くなり、心臓が訳もなく苦しくなった。
逃げ出したいと思った。でも、できない。枕を取ってくると言ったから戻らねばならない。だからじゃ。彼女はそう自分に言い訳した。
彼を見ないようにベッドに近づく。静かに、すばやく。そして、彼とは逆の端に腰をかける。さっと上掛けに潜り込もうと思った。そしたら彼が話しかけてきた。動けなくなった。動けなくてじっとしていたら彼の手が肩に触れた。ひどく驚いた。予想していなかったせいもあるが、それだけではなかった。彼の手が重くて熱くて、そして、優しかったからだ。
思わず、自分のしたことを思い出した。
王国北部バルハールで出会った少年セオに教えてもらった呪いは、彼に教えてもらったときとはなぜかその効力を違えていた。
こんなはずではなかったのだ。
ずっと一緒にいたいと、遠く離れても心はいつも彼と共にあると、それを伝えたかった。それを伝えるのにこの呪いはとても効果的だと思われた。
まあ、確かに、効果はありすぎるほどあったのだが。
いつもとは違い、彼に背を向けたままの幼い妻に、アレクシードは優しく上掛けをかけてやり、自分もその横に身を横たえた。
しかし、それにしても、こんな緊張感は、寝室を共にして初めてだった。
いつもは抱きしめるその小さく温かな体が、この身から微妙な距離を保ち離れていることも。
= Fin =