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思えば2・3日前から調子が悪かったように思う。体が重くてだるく、下腹部には鈍い痛みがある。しかし、それは夜遅くまで夫と喋っていたからだと思っていた。そろそろ寝ろと彼は言ったが、話したいことは湯水のように溢れてくる。そして、なんだかんだと言いつつ幼い妻に優しい彼は、結局のところ彼女の尽きることないお喋りに付き合ってくれるのだった。
「ユティ、朝だぞ。朝食の支度もできてるぞ」
自分のベッドで眠る幼い妻を起こすのは、夫である彼、アレクシードの日課であった。そして、なかなか起きない彼女を起こすのにうってつけな台詞も知っていた。
が、今朝は様子が違っていた。何度呼びかけても彼女は潜り込んだ上掛けから顔を出さないのだ。
まったく、だから早く寝ろと言ったのに。
あきれ果ててアレクシードは彼女の上掛けを捲り上げる。淑女に対してその行為はしてはならないものであるが、まだ幼い彼から見れば子供といってもいい年齢の彼女に対しては別に問題ないと踏んだ。もちろん、いっぱしの淑女を気取る彼女には後で文句の一つや二つは言われるであろうが、それはいつものことだ。
だから、何の気はなしにした行為だった。
上掛けを捲ると、ユスティニアは広いベッドの端に丸くなって眠っていた。いや、眠ってはいない。起きているようだった。ただ、いつもと明らかに様子が違う。
「ユティ、どうした?」
彼が幼い妻の顔を覗き込むと、いつもは血色の良い顔色がどこか青白い。そして、彼女の手は自身の腹の前に組まれていた。
驚いた彼がユスティニアの額に触れる。が、熱はないようだった。
「どこか痛いのか?」
心配そうに問いかける彼にユスティニアは薄く目を開いて、お腹が痛いと言った。
冷えたのだろうか。彼女はお世辞にも寝相がいいとは言えず、彼女の突然の攻撃に突如眠りを妨げられる彼は小さなため息をつきながら寝台から落ちそうになっている彼女を自分の下へと引き寄せ、跳ね除けられている上掛けで包んでやっていた。気をつけてはいたが、昨夜は気がつかず長い間寒い思いをさせてしまっていたのだろうか。アレクシードは己の失態に眉を顰めた。
腹が痛いと言うなら冷やすのは良くないだろう。ゆっくり寝させてやらなくては。そう思い至ったアレクシードは、ベッドの真ん中で寝させてやるべく、ユスティニアの体を持ち上げた。
「っ!」
ユスティニアが横たわっていた場所。その真っ白なシーツの上にあるのはここには似つかわしくない色をしていた。
「ユティっ!お前…」
そこにあるのは自分には見慣れた色。戦場では当たり前に咲き乱れる悲劇の赤い華。それがなぜ、こんなところで…。
ここは王宮だ。門の前には24時間交代で兵士が見張り、高く張り巡らされた塀は誰にも見咎められずにおいそれと乗り越えられるはずもない。それに、ユスティニアには自分がついていた。『アダルシャンの黒い悪魔』と呼ばれ恐れられるこの自分が。自分がついていて、寝室に忍び込むような輩の気配に気づかないはずがない。
なら、どうしてユスティニアは血を流している…?
お腹が痛いと言っていたことを思い出し、傷を確認するためにユスティニアが纏う寝間着に手を伸ばしかけたが、アレクシードは躊躇った。子供とはいえ、女性だ。男ばかりしかいない戦場ならまだしも、ここは王宮で女性の手もあり医術の心得があるものもいる。アレクシードは伸ばしていた手を引っ込め、今も青白い顔をして痛みに眉を顰める彼女に「もう少しだけ我慢しててくれ」と言い置いて部屋を飛び出した。
再び戻ってきたとき、アレクシードは王宮付きの医師とユスティニアの侍女を伴っていた。ユスティニアは出て行く前と同じようにベッドの上でお腹の付近を押さえて丸くなっていた。
医師と侍女はユスティニアに近づき、手際よく彼女の寝間着を脱がしていく。アレクシードは彼女の肌が見えないように入り口の側で立ち尽くしていた。
「これは…」
医師と侍女が顔を見合わせて笑い出した。
その不謹慎な様子に、アレクシードはたまらず激怒した。
「どうして笑う!?ユティは苦しんでいるんだぞ!」
しかし、彼の激昂をよそに、医師と侍女は笑いを抑えることもなく大丈夫ですよと言い放った。
どこが大丈夫なんだ!こんなに苦しんでいるのに!
アレクシードの手は腰の剣に延びそうになった。が、続く医師の言葉にその手は止まった。
「怪我ではありませんよ。皇女様は大人になられたのです」
大人?
その意味の通じていないアレクシードは怪訝な顔で医師を見返した。医師は広げていた診察道具を片付けながらさらに言葉を続けた。
「王弟殿下のお子が見れる日も、そう遠くはないかもしれませぬな」
そう言って医師は診察道具が入った鞄を手に部屋を後にした。侍女たちは汚れてしまったシーツとユスティニアの寝間着を変えるために忙しく立ち動いていた。
その様子を見るとはなしに見ながら、アレクシードは医師の残していった言葉の意味を考えていた。
『皇女様は大人になられたのです』
『王弟殿下のお子が見れる日も、そう遠くはないかもしれませぬな』
察しの悪いアレクシードがやっとその意味を理解したとき、真新しいシーツが敷かれ、ユスティニアは新しい寝間着を着ていた。そして、侍女たちが頭を下げて部屋を後にすると、またユスティニアと二人っきりになってしまった。
まだ子供だと思っていた。初めて会ったときからすでに4年の月日が経過していたが、彼女は初めて会ったときとそう変わっていないと思っていた。確かに、背は少し伸びたかなと思ってはいたが。
アレクシードがアダルシャンに来たころのユスティニアを思い出していたら、横になったままのユスティニアが小さい声で彼を呼んだ。
「どした?」
いつもとは違う明らかに元気のない声で呼んだユスティニアが心配になり、アレクシードはベッドの端に膝まづいて彼女の顔を覗き込んだ。
「すまぬ。心配をかけた」
「何を言うんだ。そんなこと、気にしなくていい」
青白い顔をして自分を見るユスティニアに、アレクシードは手を伸ばし、額にかかる髪の房を避けてやった。
「よく分からないが、大人になったのだと言われた。めでたいことらしい。こんなに痛いのに、どうしてめでたいのかわからぬ」
どうやら彼女には知識がないらしい。アダルシャンに嫁いできたときはまだ十歳だったのだ。教えてやる間もなかったのだろう。彼は苦笑しつつ、彼女の意見に同意した。
「そうだな。とにかく今日はゆっくり休め。また、様子を見に来るから」
彼女の頭を撫でてから、彼は静かに部屋を後にした。