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「アレク。…なんじゃ、おらぬのか」
ユスティニアがアダルシャンに人質然として嫁いできてはや五年。十も年上の夫・アレクシードが国内にいる日は何やかやと理由をつけては彼の寝室でおしゃべりがてら眠りにつくのが彼女の日課であった。もちろん夫婦が寝室を共にするのは当たり前の話であるが、彼女が嫁いで来たのは僅か十歳の子供と言っていいほどの年でもあったので、アレクシードが世の中の夫婦の常識を二人の間には当てはめなかったのだった。しかし、彼女は彼の思惑を無視してほぼ毎日と言っていいほど彼のベッドで眠りについていた。彼女は取りとめのない彼女の話を聞いてくれる彼のことが好きだったし、眠りにつく前に頭を撫でてくれる彼の大きな手が好きだったから。
今日も彼に話を聞いてもらおうと、自分の枕持参で勢いよくやってきた彼女だったが、部屋の主はどこにも見えなかった。しかし、それもよくあることだったので、彼女は慣れた足取りで彼の大きなベッドの端に座って彼を待つことにした。
「仕事なのじゃろうか」
国内の軍を指揮し警備を任されているアレクシードが夜遅くまで帰ってこないことは度々あった。きっと今日もそうなのだろうとユスティニアは思った。だからといって自室へ戻ることはせずに、華美な装飾は何一つない彼の広い部屋で部屋の主を待つことにした。
今日は話したいことがたくさんあった。新しいピアノ講師に教わった異国の可哀想な姫の歌、この間植えた種から芽が出ていたこと、義姉上に頂いた彼女の瞳と同じ色の紫の花の刺繍が入ったハンカチ。一つずつ思い出しながらどれから言おうか考えていた。
と、その時、部屋の扉が荒々しく開いて彼女の待ち人が現れた。
「アレク!」
ベッドからぴょんと飛び降り彼に近づいたユスティニアだったが、彼から香る強烈な香りに思わず顔をしかめた。
「酔っておるのか?」
彼女は飲むことを禁止されているが、彼から香るのは大人たちがおいしそうに飲んでいる透明だったり赤かったりするむっとする香りを放つ液体と同じ香りだった。それを飲んだ大人たちは、皆一様に顔を赤くし饒舌になる。正直、あまり好きではなかった。
アレクシードは気だるそうに声のするほうを見て、その声の主がユスティニアであることに気づいたらしい。酒臭い息を吐きながら「ユティか」といって彼女の頭をわしゃわしゃと撫でた。
かなり乱暴に頭を撫でられて髪の毛をぐしゃぐしゃにされ、ユスティニアはむっとして彼の手を払いのけた。しかし、アレクシードは払われた手をまた彼女の頭にやり、再び彼女の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「止めよ!」
「いいじゃないか」
彼女の嫌がることをしない彼にしては珍しくユスティニアの本気の抗議にも耳も貸さず、今度は両手で彼女の頭をがしがしと撫で続けた。
「いい加減にせぬか!」
「なんだよ。いいだろ、別に」
「嫌なのじゃ!」
「どうしてだよ」
「わ、私は子供ではないのじゃ!」
急に冷えた温度を感じ、ユスティニアはアレクシードを見上げた。すると、アレクシードの暗く光る瞳とぶつかった。
「…ふーん、そう」
今まで聞いたことのない冷たく低い声だった。
底なし沼のように暗さを増すアレクシードの黒い瞳に射すくめられるように見つめられ、ユスティニアは居場所をなくした子猫のように俯いた。
その途端、彼女の体は宙に浮き、次の瞬間には柔らかなベッドの上にふわりと倒された。
「なっ!」
抗議の声を上げようとした途端、仰向けに横たわった彼女の左側のベッドが傾いだと思うと、アレクシードが彼女の上に覆いかぶさってきた。
アレクシードの両手がユスティニアの顔の横に置かれ、彼の視線が彼女に降り注いだ。
「ア、アレク…」
「子供じゃないんだよな」
「…そ、そうじゃ」
なぜそんなことを聞いてくるのか、ユスティニアにはわからなかった。いつも子ども扱いするなと声を荒げても、優しい夫はその態度を変えることはなかった。いつだって彼女がアダルシャンに嫁いで来たときと同じ、十歳のときに受けた同じ態度で彼女の夫は接してきた。
でもこれは、今までのどれとも違った。
しばらくユスティニアを見下ろしていたアレクシードだったが、次第にその距離を縮めてきた。これほどまで顔が近づいたのも、ここ最近はあまりなかったとユスティニアはぼんやりと思った。
久しぶりに彼の黒い瞳を覗いた気がする。月のない闇のように暗いのに、でも、どこか安心する。ユスティニアは彼の瞳が好きだった。
次の瞬間、彼女の唇を柔らかく暖かな感触が包んだ。それがアレクシードの唇だと気づいたとき、ぬるりとした感触が彼女の口を割って侵入してきた。
な、なに!?
彼女は知らなかった。本当のキスというものを。
彼女が混乱している間にも、入り込んだ舌は彼女の内を執拗に徘徊し、更なる混乱へと導いた。息も継げず漏らす喘ぎがさらに彼を高ぶらせるとも知らず、彼女は混乱の中で新鮮な空気を求めた。苦しさのあまり彼を叩こうと拳を振り上げたが、苦しいのにそれを上回る動きで満たされ、拳は振り下ろされることなく力尽きた。風に舞う木の葉のようにユスティニアにはなすすべもなかった。
初めての感覚だった。意識が宙に浮き、体の芯がざわざわと波立つ。彼の手が膨らみかけた彼女の胸をコットンの布地の上から包み込んだのが感じ取れたが、すでにどうすることもできなかった。
アレク、アレク、アレク!
ユスティニアは途切れそうになる意識の中から何度も彼の名を呼んだ。未知への恐怖に自然と涙が溢れ、裏腹に体は初めての感覚に酔いしれた。心と体が別のものになったような気がした。
唇への拘束が解かれやっとついた息は、彼女が今迄で聞いたことのない自分の声だった。その声にアレクシードの雄としての本能がさらに刺激された。唇から柔らかな頬へ、ほっそりとした首筋へ、滑らかな鎖骨へと辿り着き、彼は紅い所有印をその白い肌に刻み付けながら甘く噛み付いた。
「痛っ!」
それほど痛かったわけではない。甘美な痛みに思わず声を上げてしまっただけだった。
しかし、その声にアレクシードの意識が現実に引き戻された。
「…ユティ…。俺…」
アレクシードが眉をしかめて右手でこめかみを押さえた。どれほどひどい傷を負おうとも彼女の前でそんな素振りを見せたことのない彼だけにユスティニアは心配した。
「アレク、大丈夫か?」
ユスティニアがアレクシードに近づき彼の顔を覗き込んだ。そして、ユスティニアをその目に留めた途端、アレクシードは顔面を蒼白にした。