Page: 1/2
杏子は自分の部屋の玄関扉の前に立っていた。手には一枚の名刺がある。『片付け屋 記憶管理人 鈴木』とだけ書かれてある名刺だ。
名刺を渡した鈴木という男のことを、杏子は思い返していた。
男性に対して異常なほどの恐怖を持つ杏子だったが、あの男だけは不思議と怖くなかった。もちろん、最初は怖かったのだが、丁寧な口調と彼の持つ独特な雰囲気が、いつの間にか杏子の恐怖を忘れさせた。
いや、それよりも、自分はなぜ、彼の言うとおりに日暮れを待ち、手渡された名刺を持って玄関扉の前に立っているのだろうか。
鈴木は記憶を管理しているのだと言った。それが本来の仕事だと。だから、杏子の忘れたい過去も消すことが出来るのだと。
本当だとは思えない。出来るのだとすれば、それは催眠術か何かだろう。彼は、きっと、催眠療法士なのだ。だから、ある記憶に蓋をして厳重に鍵をかけ、簡単には思い出せないようにして、その記憶を忘れたかのように思わせるのだろう。
しかし、そんなことで、本当に思い出せないようになるのだろうか。幾夜寝てみても、何度朝を迎えても、どれだけ自分を痛めようとも、何も感じないように全ての感情を閉ざそうとしても、あの記憶はどこまでも自分を苦しめた。きっと、一時忘れることも、ほんの少し薄れさせることも、自分にはどれ一つとして許されないのだと、諦めるしかなかった。目を閉じれば、いや、閉じなくてもいつでもどこでも自分を苛む悪夢は、細胞のように自分の血肉の一部となり、命をとらない程度に血を流して弱らしめ苦しめるものなのだ、と。
ああ、でも、と杏子は思う。一時でも忘れることが出来るなら、悪夢からほんの少しでも遠ざかれるなら、と。
6年は長い。しかし、杏子の時間はいまだ止まったままだ。
意を決して、杏子は目の前で固く閉ざされた扉をノックした。
少し乾いた硬い音が小さく響く。
多分、彼は扉のすぐ近くにいて、音が聞こえたら何かしらの動きがあるのだろうと、杏子は漠然と思っていた。
しかし、何も反応はなかった。扉の向こうから物音一つさえも聞こえはしなかった。
もしかして聞こえなかったのだろうか。それとも、あれは嘘?
杏子は手にしていた名刺に再び目を落とした。
よくよく考えてみればおかしい話ではないか。記憶管理人なんていうものは、テレビに出てくる怪しげな自称何とかコメンテーターと同じような胡散臭い名称だ。多分催眠療法みたいなものだろうが、資格の必要な医者のようにどうせちゃんとしたものではないに違いない。忘れたい過去を消すなどと言っていたが、誰だって一つや二つ、消してしまいたい過去はあるはずだ。杏子自身、どうしても消し去りたい過去があったため、過剰に反応してしまっただけなのだ。
そうやって冷静になれば誰にでもわかる話だ。あの電話があってから自分はどうかしていたのだろうと、杏子は思った。去ってしまうなら、それも運命だ。あの事件があったことが、避けようのない運命だとしたならば。
杏子が手にしていた名刺を握りつぶそうとしたとき、突然、扉のノブがガチャリと音を立てた。