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退職手続きが済んですぐに、携帯電話と会社との連絡用に取得していたフリーのメールアドレスは処分した。住所はそのままだったが、オートロックのマンションだったし、誰かが訪ねてこようとも応答はしなかった。外部との連絡手段は、誰も番号を知らない固定電話と、個人を特定しにくいインターネットだけになった。
全ての連絡手段を絶ってしまうと、都会に住んでいても一人になれるのだと、杏子は初めて知った。
仕事をやめて半年は、会社から支払われた僅かな退職金で生活した。あまり食事もしなかったし、カーテンを閉め切った真っ暗な部屋に電気もつけず一人でいるものだから、家賃以外の生活費がほとんどかからなかった。外に出ることなど出来るわけがなかったから、生活に必要な最低限のものはインターネットを通じて調達した。宅配業者から届けられる荷物は一回にある宅配ボックスに入れておくことにしたから、受け取りに顔をあわす必要もなかった。支払いは全てクレジットカードで、預金口座から勝手に引き落とされる方法を取った。預金口座はインターネットで確認する方法を申し込み、わざわざ窓口に行く必要もなくした。そうして外に出ないから、瞬く間に部屋にゴミが溜まってきた。最初の頃は臭いが気になったが、それもすぐに慣れてしまった。ただ、隣近所に迷惑になってはいけないと、消臭剤を大量に買い込んで部屋中に置いた。ゴミはすぐに部屋を占拠し、四畳半の衣裳部屋が最初にゴミに埋もれ始めた。
それから半年は、少しずつ貯金を崩しながら生きていった。幸い、勤めていたころは年の割りに収入が良く、同世代の女性に比べると貯金があるほうだった。幾らかは定期にもしていた。最初に手をつけたのは、皮肉なことに、結婚資金の足しにと、かつての恋人に結婚前提に交際を申し込まれた後に定期にしていたお金だった。この頃には、四畳半の衣裳部屋はゴミの部屋と化し、天井までうず高く積みあがっていた。
一年を過ぎると、手慰みに絵を描くようになった。思いついたものを、飢えたように、寝ることもなく描き続ける。その間だけは何も考えないから、自然と絵を描く時間が多くなった。ろくに食事も取らず、意識を失うまで起きて絵を描き続ける杏子は、人として最低限の生命維持行動しか取らなかった。それでも、少しずつ何かしらのゴミが排出される。すでに、四畳半の衣裳部屋はゴミによって封印され、溢れ出したゴミが次の場所を占拠しようと廊下に並んでいた。
ある日、突然、ふと思い立って、パソコンを使って絵を描いてみようと思った。すぐさま、インターネットでイラストレーターとフォトショップを購入した。あまりソフトに詳しくなかったから、一緒に解説書も購入した。時間は腐るほどあったから、ソフトの操作方法を習得するのに問題はなかった。一ヶ月もすると、それなりのものを描けるようになっていた。
絵を描きためて一年くらいした頃、何とはなしに見たサイトにあったイラストコンテストに、ちょっとした気まぐれで応募してみた。それが、初めて応募したにもかかわらず、佳作に入選した。賞金も一万円貰った。久しぶりに嬉しいという気がした。
それから、色んなイラストコンテストに応募してみた。どれもこれも、何かの選に入選し、幾らかの賞金が杏子の手元に入ってきた。僅かではあったが、貯金の減りが減少した。
初めての応募から一年ほどした頃、小さなコンテストではあったが、杏子の描いた絵が金賞を取った。その頃から、杏子に絵を描いて欲しいと、仕事の依頼が入るようになった。どこか地方の聞いたこともないような商店街からの依頼や、マイナーな雑誌の挿絵などの小さい仕事だったが、外に出れない杏子にとっての貴重な収入源となった。
その傍らで、個人的に絵を描きながら色んなコンテストに応募を繰り返していたが、ある日、名の知れたデザインコンテストで杏子の絵が大賞を取った。賞金が百万円だった。表彰式への出席依頼が大賞の通知と共に届いたが、外に出ることなど出来ない杏子は、体が不自由だからということで出席を辞退した。表彰式は大賞受賞者不在の中で開催され、大賞を取った杏子の絵と、ペンネームの「杏」という名前だけが紹介された。
その後、驚くほど仕事の依頼が舞い込みだした。
しかし、杏子はそのほとんどを断った。
仕事は喉から手が出るほど欲しい。それが杏子の収入源になるからだ。それなのに断らざるを得ない理由はただ一つ。杏子が外出できないからだった。
仕事というものは、やはり顔を合わせないと信用が置けないのだろう。体が不自由だということを理由に杏子が断ると、中にはそれでもあって話がしたいからこちらから伺うと言う人間もいた。しかし、そのほとんどが男性であり、男というものに対して底知れぬ恐怖を抱く杏子には、部屋に招きいれることなど出来るものではない。外で会うことも、中で会うことも出来ないと言うと、誰もがそれ以上杏子に仕事を頼むことなどなかった。
杏子はゴミの部屋で誰にも会わず閉じこもり続けた。