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涙が流れ落ちていた。自分にまだこれだけの涙が流せるとは思ってもみなかった。
ここ数年の自分の記憶が走馬灯のように流れていったのがわかった。それは、膿んでなお血を流し続ける傷に、再び刃を入れる行為に似ていた。
杏子はぼんやりした頭で、目の前の鈴木の顔を見上げた。彼はいつの間にかメガネを外していた。なんて綺麗な男なんだろうと思った。
杏子の頬に手が添えられ、鈴木の顔が近づく。彼の紅く薄い唇が頬を伝って落ちていく涙を拭っていく。その感触はひんやりと冷たく、そして、甘く優しかった。
「あなたが必要とされない記憶は私の管轄となりました。今後、あなたがそれらの記憶に悩まされることはありません」
「でも、私、覚えているわ」
泣き過ぎで震えてしまっている声で杏子は答えた。
頭の芯が軽くしびれているようで意識がどこかぼんやりしているが、でも、まだあの忌まわしい記憶は確かに杏子の中に残っている。
そんな杏子の不安を、鈴木は優しく笑って否定した。
「それはこの部屋にいらっしゃるからでしょう」
「この、部屋に?」
「ええ。この部屋は私の管轄内ですから」
理解できず首を傾げた杏子だったが、鈴木はそれ以上説明するつもりはないらしかった。
「心配なさらずとも大丈夫ですよ。私は記憶管理人ですから」
そう言って微笑んだ鈴木の笑顔には、杏子の心を軽くするほどの効果があった。
にもかかわらず、杏子にはまだ気になることがあった。
「でも」
「どうかしましたか?」
「私の、私の記憶がなくなったとしても、他の人の記憶が…」
それ以上、杏子は言えなかった。
あの記憶が杏子の記憶から無くなったとしても、少なくとも後二人、あのことを知っている人物がいる。杏子を苦しめた人間と、あの頃付き合っていた孝治。彼らは唯一、あの忌まわしい記憶を保持している。
そんな杏子の心配にも、鈴木の笑みは変わらなかった。
「心配いりませんよ。私の管轄となった記憶に紐付く記憶に関しても、自動的に私の管轄となりますから。ただ、抜けた記憶に関しては私の方で置き換えさせてもらいますが」
「置き、換える?」
「ええ。私の管轄になるということは、その記憶は無くなるということですから、代わりの記憶が必要になります。その記憶は私の方で用意させて頂くということです」
「代わりの、記憶…」
「ええ。何か望みはおありですか?」
「え?」
「鳴海さんに何かご希望がありましたら、そのご希望に沿って代わりの記憶を用意いたしますよ」
希望。それは、あの日から杏子にはありえないものだった。
「この部屋の扉を開いたあなたにはその権利があります。さあ、望みを仰って下さい」
自分の心のままに願いを思い描き、望みを口に出すことを、杏子はこの数年、諦め、考えないようにし、厳重に蓋をして、そして完全に密封した。それを、目の前の綺麗な男は解放しろと杏子に言った。
「そうだよ、杏子。言えよ」
あの不思議な蛇もいつの間にかそばにいて、杏子の瞳を覗きこんでいた。小さくて丸い真っ黒な瞳に杏子の瞳が映っていた。その瞳は新しく流れ出した涙でゆらゆら揺れていた。
「私、私…」
「いいんですよ。口にしても」
顔に当てられたままの鈴木の手が、優しく杏子の頬をなでる。溢れる熱い涙と相反して、彼の手はひんやりと冷たくて心地よかった。
「もう…、もう、嫌なの。過去に囚われて動けないのは。あの人なの。あの人なのよ。私に色を見せてくれたのは。あの人が行ってしまう前に、私、私…」
あの日以来、杏子が初めて吐露した思いだった。
押さえつけていた思いで体を震わせる杏子を、鈴木は優しく抱きしめた。男に触れられることをあれほど恐れていた杏子だったが、鈴木のどの行為にも微塵の嫌悪感も感じなかった。
「鳴海さん、あなたの望みはわかりました。さあ、このまま眠っておしまいなさい。目が覚めれば全てが変わっているでしょう。ただし、あなたはそのことを忘れてしまっていますがね」
鈴木の腕の中はどこかひんやりしていて気持ちよかった。波間に漂っているような心地よさの中で、あの蛇が「じゃあな、杏子」と言ったのが聞こえた気がした。