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佐伯信男はコピー機のメンテナンス業務を主に行っている。自社のコピー機を納めている会社を月に1回程度の割合で訪れ、出力数を確認したり、コピー機内の埃の除去やトナーの納入などを行う。それ以外には、コピー機のトラブルなどで急遽呼ばれたりもする。
今日はトラブル対応で自社から200M程離れた会社に来ていた。
このコピー機のメンテナンスに来たのは先々週のことだ。その時は特に問題なかったはずだが、何か見落としたのだろうか。
どちらにしても見てみないことにはどうにもできない。佐伯は腹をくくって声をかけた。
「コピー機の修理にやって来ました」
入口から声をかけると、一番近い席にいる女性がすぐに駆けつけてきた。
「ご苦労様です。すいません。急にお呼びたてして。最近よく詰まってたんですけど、とうとう動かなくなっちゃって」
女性は経緯を説明しながら佐伯をコピー機の前に案内した。
コピー機は電源が入っていなかった。
「あれ?電源が落ちてしまったんですか?」
佐伯の問いに女性はすまなそうに説明した。
「ずっとピーピーって音が鳴りっぱなしで。コンセントを抜いちゃったんです。ごめんなさい」
「ああ。そうでしたか。いいんですよ」
佐伯は女性に向かって微笑んだ。
エラーが発生したことを知らせるのは良い機能だと思うが、原因が取り除かれるまで永遠に鳴り続けるというのは、直そうと格闘している者にとっては苦痛以外の何ものでもない。
佐伯の言葉に女性はほっとした様子で「よかった」と呟いた。
「それじゃあ、ちょっと見てみますね」
佐伯は道具などが入った大きな鞄をコピー機のそばに置き、自分もその前にしゃがみこんでコピー機前面のカバーを開けて作業を始めた。
それを見届けてから、女性は近くの自席に戻り、自分の仕事を始めた。
エラー内容を確認するために抜かれていたコンセントを挿し込み、コピー機の電源を入れてみる。静かな起動音が聞こえ始め、コピー機自体の起動チェックが始まった。
彼女の言うとおりなら、途中で起動チェックが終了してしまい、エラー音が鳴り響くだろう。そう思いながら眺めていると、案の定、エラー音が鳴り始めた。
画面に表示されているエラー番号を確認する。そして、内部へと頭を突っ込んで確認し、佐伯はエラーの原因を確信した。
部品の磨耗による紙詰まり。磨耗した部品を交換することによってこのエラーは解消されるはずだ。
佐伯はもって来た鞄の中を探って、部品を探し始めた。しかし、目当てのものがあるべき場所に入っていない。そういえば、と、佐伯は思い当たった。2・3日ほど前、同様のエラーでその部品を使ってしまったのだった。
佐伯は胸ポケットから業務用携帯電話を取り出し、自社に電話をした。部品の在庫があれば社に取りに戻るつもりだった。しかし、電話に出た同僚は、目当ての部品は発注はされているのだが、届くのが明日になるだろうと伝えてきた。
部品がないことには作業が出来ない。
佐伯はその旨を伝えるために、先ほどの女性に近づいた。
「あ、すいません。ちょっといいですか」
「はい。何でしょう」
「実は部品の交換が必要なんですが、その部品が明日にならないと届かないらしくって。申し訳ありませんが、また明日にお伺いするということでかまいませんでしょうか」
申し訳なさそうに伝える佐伯に対して、その女性は明るく「かまいませんよ」と答えた。
「隣の部屋にもコピー機はありますし、明日には部品が届くんですよね」
「ええ。部品さえ届けば修理はすぐですから」
「他の人間には伝えておきますから、大丈夫ですよ」
「では明日、部品が届きましたら修理に来ます」
佐伯は頭を下げ、鞄を抱えて部屋を出ようとした。
「あ、ちょっと待って下さい」
そう言って女性は机の上から何かを取り出し、佐伯に向かって差し出した。白いウェットティッシュだった。
「え?」
「これ、使って下さい。えっと…」
「あ、ああ。佐伯、です。佐伯、信夫」
思わず名乗ってしまった佐伯だったが、その女性が何故ウェットティッシュを差し出しているのか、理由がわからなかった。
佐伯があまりにも不可思議な顔をしていたのがわかったのだろう。女性はその理由を教えてくれた。
「お顔が汚れてます。だから、どうぞ。佐伯さん」
白いウェットティッシュを再び佐伯の目の前に挿し出し、女性はにっこりと微笑んだ。
佐伯はぼんやりと彼女を見つめながら、ウェットティッシュを受け取った。そしてそのまま右頬へとあてがった。
しかし、位置が違っていたらしい。そこじゃなくて、と言いながら、彼女は佐伯の手からウェットティッシュを奪い取り、佐伯の左頬骨辺りに当てて優しく拭き取った。
ウェットティッシュ越しに、僅かに彼女の手の温もりを感じた。その瞬間、佐伯の心臓もどくんと大きく跳ねた。
この女性は、誰だろう?
佐伯は女性の制服の胸にピンで留められている名札に目を走らせた。そこには彼女の苗字である『柏井』という漢字が刻印されていた。
柏井、何っていう名前なんだろう。
されるままに、佐伯は馬鹿みたいに目の前の女性をただ見つめていた。