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山間の小さな村だった。村人は誰も顔見知りで、半日ほど歩けば村内を全て知り尽くせる、その程度の広さだった。重なる山の隙間から日が昇り、向かいの谷間へ日が沈む。朝の訪れを飼っている鶏が告げ、空の高さを満喫するように鳶が飛び、そろそろ家へお帰りと鴉が家路に急ぐ。牧歌的なその村にその男がやって来たのは、もう随分と昔のことらしいが、博識だった男は惜しげもなく村人に知識を与え、村に初めての学校を創設した。それ以降、彼も、彼の子も、その子も、村で唯一の「先生」と呼ばれる存在となった。
「先生、さよーならー」
「さよならー」
子供たちに先生と呼ばれたその男は、「気をつけて帰りなさい」と普段は硬い表情を緩めて答えるのだった。
そうして、全ての生徒たちを見送った後、男は明日の授業の準備をしてから、自らも帰宅の途に就く。帰る頃には梟のほぅほぅという鳴き声を耳にすることがほとんどだった。
「ただいま。今、帰った」
「お帰りなさい。あなた」
「お父様、お帰りなさい」
男には彼より幾分若い妻と、十になる息子が一人いた。妻は村長の娘で、人目を引くような華やかな容姿ではないが、月に照らされて輝くような密やかな美しさと、芯の強さを持つ女性だった。そんな彼女を嫁にという男達も多くいたが、それを無視するかのように何故か村長に請われ、彼女を妻に娶った。男にとって愛情から始まった生活ではなかったが、月日の重ねと同じにゆっくりと愛は育まれた。実は、妻は男のことを少女の頃から慕っており、そんな娘の気持ちを知って村長が一肌脱いだのだと、後で人づてに聞いた。しかし、その頃には男はとうの昔に妻のことをこよなく愛していたから、それを聞いてもそうだったのかと思うだけだった。それからほどなくして、男は妻との間に息子を一人授かった。息子は男に似て聡明で、妻のように芯が強く、いつか自分も父のようになるのだと、常に努力を惜しまない子供であった。
「今日は早かったのですね。お夕飯、先に召し上がられますか?」
「そうだな」
「では、温めますので、座ってお待ちになってくださいな」
「ああ、ありがとう」
居を共にし始めた頃、妻は食事もせずにいつまでも男の帰りを待っていた。何度も先に食べているように男が言っても、妻は何も言わずにっこりと微笑んで男の帰りを待ち続ける。最後には男のほうが折れて、できるだけ早く帰宅するように心がけた。ただ、どうしても遅くならざるを得ない時もある。そこで男は妻の妊娠、出産を機に、彼女の身を案じて、鴉が山に帰って鳴き声が聞こえなくなっても男が帰ってこないときは先に食べておいて欲しいと妻に懇願した。それからは、男が遅くなっても、妻と生まれた息子が食事を待っているようなことはなくなった。
男が食卓の定位置に腰を下ろすと、息子が、彼には随分と大きな本を手に近づいてきた。
「お父様、教えて欲しいところがあるのですが、後で見てもらえませんか?」
男がちらと息子の抱えている本に目をやると、それは彼が最近はまっているらしい薬草学の本だった。村には抱えの医者がおらず、定期的に通いの医者が来る。急な事故や病気の場合、手遅れになることもままあり、それがこの村の一番の問題でもあった。その状況を打開しようと、男が少しずつ集めていた薬草学の本を、この息子は父の助けになろうと必死に勉強していた。そんな息子を、男は柔らかい瞳で見つめた。
「本を出しなさい」
「はい」
父の言葉に息子はいそいそと本を開き駆け寄る。食事の用意ができる前の、ここ最近のこの親子の日課でもあった。
「さあさあ、キートも、カタさまも、後になさいませ。食事が冷めてしまいますよ」
妻のメロジが温かい食事の乗った盆を手に、いつまでも終わりそうにない二人、息子のキートと夫のカタに優しく声をかけた。
「わかりました、かあさま。とうさま、ありがとうございます」
「よい。また後で見てやろう。本はそこに置いておきなさい」
カタの前の空いたスペースにメロジが食事を並べていく。大きな尾頭付きの川魚に、春の野菜の胡麻和え、茶碗蒸しと汁物に麦飯。村の恵みでだけで賄う食事は、贅沢ではないが、十分に裕福だった。
一家は幸せだった。豊かではないが村はいつも穏やかで、このままずっと時が過ぎていくものだと、疑うことさえなかった。その時までは、神さえも、そう思っていた。