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「あ、あの、光永さん」
由輝が何度呼びかけても、陽太は黙ったままだ。
いつもよりも強く彼女の手を握り、いつもよりも早く歩く。そのせいで、由輝は何度か転びそうになった。
「もしかして、待っていてくださったんですか?」
店長に上がっていいと言われて、陽太だけ先に上がったはずだった。それなのに、今、ここにこうしているということは帰らなかったに違いない。でも、陽太は真っ直ぐ前を見たままで、何かから逃げるかのようにその足を緩めない。
「あの、付き合っていること、ばらしてもよかったんですか?内緒にしてもらえるように、今から星村さんに話して」
そこで由輝の言葉は途切れる。
急に立ち止まった陽太が由輝の手を強く引いて、彼女を引き寄せたからだ。よろけた由輝は、陽太にぶつかる直前で、何とか体勢を保てた。
「知られたくなかった?」
「えっ?」
「あいつには知られたくなかった?」
あいつって、星村さん?
「で、でも、付き合ってるの秘密にって、光永さんが…」
バイトに入る前に、付き合っていることは秘密にしようといったのは陽太のほうだった。由輝に指摘されてそれを思い出した彼は、額を押さえて長い息を吐いた。
「ごめん」
背中を向けたまま陽太が言う。由輝からは背中しか見えないから表情はわからない。でも、陽太がひどく疲れているようには見えた。
「い、いえ!謝られることなんて何も!それよりも、光永さん。もしかして、お疲れなんじゃないんですか?あ!ずっと外で待ってて、風邪を引いたんじゃ!な、何かあったかいもの…」
片方の手はなぜか陽太が強く握ったまま離さない。仕方なく、由輝は空いているほうの手で鞄の中を探ろうとしたが、それは結局できなかった。
「み、み、みっ、光永さんっ!」
気がつくと、由輝は陽太の腕の中にすっぽり収まってしまっていた。
自分ではどうしようもないほど動揺しまくっている由輝に気づいているはずなのに、それでも陽太は離そうとしないどころか、ますます力を込めて由輝を抱きしめた。
「あ、あ、あっ、あの、み、み、みっ、光永さん」
「この方があったかい」
「で、でも、あの…」
「由輝」
「ひゃいっ!」
突然、名前を呼ばれて、由輝は返事とも悲鳴ともつかない声を上げた。
「俺も名前で呼んでいい?」
「にゃ、にゃまえ、ですか」
「そう。いいよね。俺達、付き合ってるんだから」
「ひゃ、ひゃい」
由輝にはこれっぽちの見当さえついていない、陽太の嫉妬。
誰もが虜になるイケメンの陽太であっても、中身はごくごく普通の男子高校生だ。自分の彼女に見知らぬ男が親しげに名前を呼ぶのを黙ってみていられるほど、大人なわけでもない。
ふっと由輝への拘束が緩む。ほっとしたのも束の間、陽太の瞳がいつの間にか間近に迫っていた。
「今日は倒れないでね」
耳元で囁いた唇が、そのまま由輝の唇に触れる。
倒れないでと言われた由輝は、何とか必死に意識の尻尾を掴んでいた。
1、2、3…?ん?
まだ数えるほどの陽太とのキスの経験からでも、これは長い!と由輝が感じ始めたとき、それはゆっくりと離れていった。
ぷはあっっと息をして、やっと、自分が息を止めていたことに由輝は気づいた。息を整え顔を上げると、自分を見ている陽太と目が合った。
「み、光永さん…」
「俺の名前、呼んでみて」
「えっ?」
「陽太。ゆってみ?」
「ふぇっ?」
夢や想像の中では何度も言ったことがあるが、現実となると恥ずかしさが際立って、なかなか口にできそうもない。が、目の前の陽太の目は、言うまで帰さないとでも言うように、強く由輝を見つめていた。
「よ、よう、た」
「ちゃんと続けて言って」
「ふぇっ?」
「由輝」
「よ、よ、陽太!」
由輝は、それこそ清水の舞台から飛び降りるような気持ちで呼んでみたが、呼ばれた当の陽太はまだどこかすっきりとしていない表情だ。
「あの…」
「由輝」
「は、はい」
「俺のこと、好き?」
「ふへっ?」
「どっち?」
そんなこと、聞かれるまでもなく決まっている。けど、改めて口にするには、勇気がいる。
「どっち?」
「す、好きです!」
「名前も付けて言って」
「えっ?」
「俺は由輝が好きだよ。由輝は?」
「あ、わ、私も。よ、陽太が、す、好きです!」
清水の舞台どころか富士山くらいから飛び降りたような気持ちで、由輝は告白した。
「うん。ありがと」
なぜかお礼を言われて、びっくりした由輝が陽太を見ると、彼の表情はやっといつものとおり、穏やかな目で由輝を見つめていた。
よかったと、由輝がほっとしたのも束の間、彼女の意識は次の瞬間で途切れた。
チュッ。
2度目のキスを合図に、由輝は意識の尻尾を手放した。
= Fin =