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「津軽!いい加減起きなさい!」
自分の名を呼ぶ声に、彼の意識は無理やり覚醒される。
ああ、あの子が起こしてるんだな。まだもう少し、このままでいたいんだけどなあ。
深い眠りの底でも彼女の声は忘れない。
それがどういうことか、彼は気づいていない。
「津軽!何時だと思ってるの?」
それにしても、と、意識の尻尾を掴みながら彼は思う。
彼女の声がどこか違うと。
甲高い子供の特有の声が、今日はどこか落ち着いて耳に優しく響く。
風邪でも引きかけてるんだろうか。
そんな心配をしながら、津軽はぱちりと目を開いた。
彼はどちらかというと寝起きはいい方だが、今日ばかりはまだ寝ぼけているんだと思った。
なぜなら、自分を覗き込む顔がいつもと違う。
思わず、布団から右手を出して目を強くこすった。
それでも、目の前の情景に変化は訪れない。
「君は誰?」
疑問が思わず口をついてでていた。まだ寝ぼけているのかもしれない。
彼の開口一番の言葉を聞いて、相手は眉間に皺を寄せた。
「誰って何?いつまで寝ぼけてるの!早く起きなさい」
どうやら相手は自分をよく知っているらしい。
彼はじっと相手の顔を見た。
意志の強そうな大きな黒い瞳。絹のように細く艶のある黒く長い髪。怒っているせいかぷっくりと膨らんだ頬と不満を溜め込んだとんがった唇は、彼のよく知っているあの子を連想させた。
でも、あの子はまだ子供だ。
そうなのだ。目の前にいるのは、どう見ても年頃の娘で、津軽がよく知っている彼女に比べると、あきらかに年上だ。
娘は両手を腰に彼を見下ろしている。津軽は半身を起しながら、目の前の娘を観察した。
彼がじっと見ていると、娘は見る見るうちに顔を赤くした。その様子は、やはり彼が良く知っているあの子によく似ている。
「何をじっと見てるの!津軽がいつもより早く起こせって言ったんでしょ。朝起こすのはずっと君の役目だからって言って。忘れたの?」
ああ、そうか。と、津軽は思った。
これは夢で、目の前の娘はあの子が大きくなった姿なんだと。
そう気づいた途端、彼の意識は彼がいるべき本当の世界へと引き戻された。
ぱちりと目を開けても、先ほどの娘はおらず、いつも起こしに来るあの子もいない。障子越しの外の明かりも、まだどこか弱いところを見ると、どうやら日が昇るにはわずかに早そうだ。
かといって二度寝する気にもなれず、津軽は布団から抜け出て部屋を出た。
その扉を小さく叩き、「起きてるかい」と声をかけてみる。
こんな朝早くに起きているわけもないし、返事が返ってくると思ったわけでもないが、一応そうやっておかないとあの子が「女性の部屋に勝手に入るなんて!」と怒ると思ったからだ。
しばらく待ってみたが、案の定、返事は返ってこないし扉の向こうの様子も静かだ。
津軽は躊躇することなく、鈴子の私室の扉を開けた。
一歩部屋に入ると、まだわずかに若い林檎のような甘酸っぱい香りがする。畳敷きの部屋の真ん中に敷かれた大人用の布団の中で、鈴子は小さな寝息を立てていた。
あまりにも気持ちよさそうに眠っているものだから、ちょっとした悪戯心とでもいうのか、津軽は鈴子の枕元に座り込んで、彼女のぷっくらした頬を人差し指でちょいちょいとつついてやった。
すると、それが不快だったのか、彼女の眉間に小さなしわが刻まれた。
それもわずかな間だけで、鈴子はまた気持ちよさそうに小さな寝息を立て始めた。
その顔を見ながら、津軽は先ほどの夢に出てきた少し未来の彼女を思い浮かべた。
今は閉じられているが、強い意志を秘めた大きな瞳も、目の前で流れる黒く艶やかな髪もまるきり同じだった。しいて言えば、幼さを強調する丸い輪郭がわずかに面長くなり、紅を引いていたのか唇がわずかに紅かった。
そうか。この子もいつかは大きくなるんだな。
そう遠くない未来を思い浮かべて、津軽の心は少しだけざわついた。
その時、鈴子がくしゅんと小さくくしゃみをした。
風邪を引かせてはいけないと、津軽は布団の上掛けを引き、わずかに出ていた鈴子の肩を布団の中に収めてやった。
この先、君が幸せであればいいな。
身請けするときに知った彼女の過去。それでも、輝きを忘れない彼女の無垢な魂。
僕ができることは本当は何一つだってないのかもしれないな。
津軽は鈴子の寝顔を見ながら、そんな風に思った。
= Fin =