Page: 1/1
|
「ベンケー?」
「おう。静。で、どうだったんだ?」
電話の向こうで心配そうな顔をしている「ベンケー」のように大きくて頼もしい彼氏、武蔵慶の顔が、八木静には容易に思い浮かぶ。
その顔を思い浮かべて、静は嬉しそうに小さく笑った。
「うん。合格よ、ベンケー。心配かけてごめんね」
「バカ。こんなの心配のうちに入るかよ」
言葉はぶっきらぼうだが、本当は誰よりも優しい。彼の言葉の裏にどれだけの優しさが秘められているか知っている静には、彼の言葉一つ一つが嬉しい。
「ふふ。ありがとね、ベンケー」
「おう。で、静。どうする?」
「え?」
「ほら、約束してただろ。受かったらどこでも好きなところ連れてってやるって」
彼が言っているのは、静が大学に合格したらという前提で約束していた旅行のことだ。
「えっ!?本当にいいの?」
「ああ。そう言っただろ。俺」
「覚えてるけど…。でも、忙しいんじゃないの?この間、発掘調査の真っ最中だって」
確かにそう約束していたことは覚えてはいたが、彼がいつも忙しくしているのも知っていたので、現実問題として実現しないのではないだろうかと、正直、静は思っていたのだった。
いつでもどんなときでも考古学バカの彼の頭の中は「遺跡」「古墳」だけで、静のことが彼の頭の中を占めている時間がどれほどもないだろうと、静は思っている。しかし、静が思う以上に、慶の頭の中は静で占められているということに、彼女自身は気づいていないのだが。
「ん、まあそうだけど、だいぶ目途もつけたしさ。それに、こういうことって何度もあることじゃないしよ」
「無理は、しないでね」
「バカ!お前のためなら、別に俺は、こんなことくらい、なんてこと…」
最後の方はだんだん小声になってきて聞き取れなかったが、慶が照れたようにあさって方を向きながら弁明している様子を想像して、静は思わず微笑んだ。
「ありがと、ベンケー。なら、私、吉野がいいな」
「吉野?また?」
「うん。だって、初めてベンケーと逢った場所だし、私、好きなの」
好きが吉野という言葉にかかっているとわかってはいるものの、まるで自分に言われたかのようで、慶は思わず顔を赤らめた。
「そっか。じゃあ、そうすっか。あ、静」
「なあに?」
「部屋、一つでいいか?」
「部屋?うん。いいわよ。そのほうがお得だもんね」
そう静が言った後、電話口の向こうから長いため息が聞こえてきた。
「?ベンケー?」
静が名前を呼びかけても何の反応もない。
電話が切れてしまったのかと、静がもう一度声をかけようとしたとき、受話器から声が聞こえてきた。
「静。俺の言ったこと、わかってるか」
「え?どういうこと?」
まだ高校生だからなのか、それとも彼女自身がそういうことに疎いだけなのか、健全な男子でもある大学生の慶が、彼女との関係に色々と悩んでしまうのはこういう理由からだ。
「部屋が、一つでもいいかって、聞いたんだぞ。俺は。夜も、一緒だぞ。それでも、いいのか?」
一つ一つ、彼女の頭に浸透するように問う。
抱きたい。俺のものにしてしまいたい。それでも、彼女を傷つけたくない。複雑な願いを込めて。
「ベンケー、私…」
静の声が小さくなる。やっと彼の言っている意味がわかったらしい。
「嫌なら、嫌って言ってくれていい。俺は、静を傷つけたいわけじゃないから」
以前、慶に強引に押し倒されたことを静は思い出す。あの時も、慶は静を押し倒したものの、本気で嫌がる静を強引に自分のものにしようとしたわけではなかったことを知っている。だからこそ、今だってこうして静の意見を聞いてくれているのだ。
目を閉じ、静かに息を吸い込んで、再び静は目を開いた。
「いいよ。ベンケー」
「えっ?」
「一つでいいよ」
「ほんとか?静!その、自分から言っといてだけど、でも…」
「うん。ベンケーなら、いいの」
静の心は、あの時に決まっている。大好きな彼だから、だからこそ、かまわない。
「ベンケーだから、ベンケーが好きだから、だから、私」
「うん。ありがとな、静」
二人の刻む時が、この先どうなるのかわからない。だが、これまでに二人が出会った歴史の恋人達のような、後悔だけは、したくはない。
「ベンケー、好きよ。私、ベンケーに出逢えてよかった」
「俺も。好きだよ、静。逢えてよかった」
偶然に出会った二人なのに、運命がそうさせたかのように、出逢い、恋に落ちた。
二人の未来は、これからも、千夜を走り、暖かな恋歌を紡いでいくのだろう。
= Fin =