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「ご自分の本は置かないんですか?」
「ん?何?」
「この本棚には一冊も見えませんが。瀬田先生」
パソコンに向かって執筆活動中の瀬田一木に、本棚の前で本を物色していた岩戸せつなは尋ねた。
「わざわざ置かないよ。自分の本は」
パソコンから目を離さないまま、瀬田は答えた。
「私に見られたら困るからじゃないんですか?」
せつなは高校2年生。そろそろ3年になる。出版社でアルバイトをしており、その時に瀬田と知り合った。もうすぐ1年になる。
「まあ、君には刺激が強すぎるだろうけどね。でも、元々置いてないよ。残念ながら」
瀬田は官能小説家だ。つい最近、純愛小説を出版したが、それが良かったらしく、最近はジャンルを広げているらしい。
「そうですか…」
せつなも官能小説が読みたいわけではない。瀬田の作品だから読んでみたかっただけなのだ。それが、女子高校生にはきつい内容だったとしても。
「何?読みたいの?」
気がつくと、火のついた煙草を口にくわえた瀬田が、せつなの後ろに立っていた。
「君にはこっちの方がいいと思うけどなあ」
そう言って、瀬田はせつなの後ろから本棚へと手を伸ばした。
瀬田の、小説家とは思えない大きなごつごつした手が、せつなの髪に触れるか触れない距離を保って延びてくる。一瞬どきりとしたが、手は真っ直ぐ本を掴んだ。
瀬田が手にした本は「グリム童話」と題されたハードカバーの本だった。
「私、そこまで子供じゃありません」
むっとしたせつなに、瀬田はその本を頭に置いてやった。
「子供向けに訳したものじゃないよ。岩戸さんならこういうの好きだと思うよ」
頭に置かれた本に手をやる。すると、瀬田は本から手を離し、すっとせつなから離れた。
(やっぱり、これ以上近づいてこない)
両思いだと思う。キスだってしたし、された。でも、それだけだ。何も変わらない。
せつなは本に目をやった。確かに、瀬田の言うとおり、カバーは子供向けの絵本のような可愛らしい絵など一つも描かれていない。豪奢な装丁に題名と訳者の名前が書かれているだけだ。
「グリム童話って、あれですよね?」
「うん。皆がよく知っているあれだよ」
煙草を口にくわえて瀬田がにっこりと笑う。
せつなは煙草は嫌いだ。でも、瀬田が煙草をくわえているのを見るのは嫌いではない。
「皆がよく知っている童話はね、実は結構残虐なのが多いんだ。知らない人について行ったりしないようにとか、そういう教訓みたいな意味もあるのかなとは思うけどね」
(知らない人、か…)
せつなは思い返す。
出版社のバイトで瀬田に資料を届けることがなかったら、彼のことは一生知らないままだったかもしれない。
今ではもう、そんなことは考えられないことだったが。
「どうかした?岩戸さん」
白っぽい煙を吐きながら、せつなを見て瀬田はにっこり笑う。
こんなおじさんのどこが良かったのか、自分でもわからなくなるときがあるが、でも、好きになったのだから仕方がない。
「いや~、そんなにリアルJKみ見つめられると、おじさん、困っちゃうなあ♪」
(また…)
瀬田の軽口には、これ以上近づけないための予防線も含んでいることを、せつなは気づいていた。
「私と瀬田さんは知らない相手じゃないですよね?」
「ん?ああ、そうだね」
せつなは分厚い本を胸に抱えたまま、瀬田の目の前に立った。
「じゃあ、ついて行ってもいいですよね」
真っ直ぐ瀬田を見つめる。負けないように。揺るがないように。
その瞳が、瀬田を強く捉えていることを、彼女は知らない。
瀬田は、大きく息を吐き出した。
「まったく、どっちがついて行ってるんだか」
誰に言っているのか、瀬田は自嘲気味に笑った。
「お手柔らかにね」
瀬田はそう言って、真っ直ぐ自分を見上げるせつなの額にキスを落とした。
不意のキスに、せつなの頬が赤く染まる。
「ど、どうしておでこなんですか!」
どうやら彼女には不満だったらしい。
「ついて行っていい人間がわかってない君には、おでこで十分だよ」
笑いながらそう言って、瀬田はパソコンの前に再び座った。
瀬田のテリトリー内で無防備に自分に挑みかかってくるせつなに瀬田が手を焼いていることなど、彼女は知る由もない。
= Fin =