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「瀬田さん」
「ん?何?」
売れっ子官能小説家であり、最近は純愛小説までジャンルを広げて更なる飛躍をとげている瀬田一木は、出版社でアルバイトをしている岩戸せつなに声をかけられた。彼女と知り合ったのは、彼女のアルバイト先でもある出版社が縁であるが、なぜか彼女は一回り以上も年上の瀬田のことが好きらしく、出版社のおつかいと称しては瀬田の仕事場兼住居でもあるマンションの一室に上がり込む。今日もそういう理由でここに居座っているのだが、飲み物を要求した後、ダイニングテーブルの一席に陣取ったまま、せっかく入れたダージリンにも手を付けない。きっと何か(彼女にとっては重大な)話があるんだと推測できるが、瀬田から助け舟を出してやるようなことはしない。優しく手を差し伸べてやるのが大人の男というものだろうが、彼女の困っている顔や悩んでいる顔を見るのも好きなのだからしょうがない。
そうこうしているうちにやっと言う気になったのだろう。せつなが真剣な目で瀬田を見据える。
「私、今日、高校を卒業しました」
「えっ!あ、そうなの。えっと、おめでとう、でいいのかな。岩戸さん」
今日もいつものように制服で来ていたから気づかなかった。職業柄、室内に閉じこもることが多く、外が桜散る三月になっていたことさえ知らなかった。
「ありがとうございます。それで、瀬田さんから、お祝いが欲しいんです」
きたな、と瀬田は思った。用心しておかないと、この子は何を言い出すか、それなりの経験を積んできた瀬田でも予測がつかない。
「岩戸さんのためなら何でもあげちゃうよ。でも、島とか油田とか言われると、さすがのおじさんも困っちゃうかなあ。あっ、今どきの若い子ならブランド物の鞄とかそっちかな」
わざとおちゃらけて言ってみるが、彼女は乗ってこない。まあ、わかっていたことだが。
「大丈夫です。お金はかかりませんから」
そういうのが一番困るやつなんだけどなあ、とすぐに思ったが、口には出さない。代わりに「それはおじさん助かっちゃう!」とおどけて見せることにする。でもやっぱり、彼女は乗ってこない。危険な兆候だ。
「私と」
せつなは瀬田を真っ直ぐ見つめる。若さゆえなのか、それとも彼女だからなのか、その真っ直ぐさは瀬田をその場に縫いとめる。
瀬田は口の中にたまった唾液をごくりと飲んだ。
「SEXしてください」
その瞬間、瀬田はガチンと固まった。
予想をはるかに超えた彼女のお願い。いや、なんとなく気づいていて、気づかないようにしていただけかもしれないが。
「えーっと、岩戸さん。何言ったか、…わかってるよね?」
「はい。瀬田さんに私の初めてを奪ってほしいんです」
彼女の瞳に揺らぎはない。大きく揺らいでいるのは、はた目にはわからないかもしれないが、むしろ、瀬田の方だ。
「うーん。それだと、得しちゃうのは、どっちかっていうと岩戸さんじゃなくて俺の方になっちゃうんだけど。わかる?」
「それならなおさら損がなくていいんじゃないんですか。私は瀬田さんに処女膜を破ってもらえるし、瀬田さんはお金も出さずに初ものを抱けます」
瀬田は額に手をやる。
やはり、彼女は予想がつかない。年頃の、それも(たぶん)処女が、その経験の全くない口で「処女膜」とか「初モノ」とか言うだろうか。瀬田は頭が痛くなってきた。
「岩戸さん…。若い女の子が、そんなあられもない言葉を使うのはやめようね」
「官能小説家が何を言ってるんですか」
「いや、まあ、そうだけど。あれは仕事だから」
「趣味と実益を兼ねてると、以前、おっしゃっていましたが」
「あー、言ったね。まあ、そうなんだけど」
人より性欲が強いと自負する瀬田にとって、官能小説家という仕事は紛れもなく天職と言ってもいい。しかし、今ここで、それは指摘しないでほしいと願うのは間違っているだろうか。
「とにかく、ね、岩戸さん。初めてのことなんだから、よく考えた方がいいよ」
「よく考えてここに来ました」
「君はそうなんだろうけどね。君の生涯の記憶の中に、このおじさんとの行為が刻まれるんだよ」
「望むところです」
「痛くしない自信はあるけど、痛いかもしれないよ」
「瀬田さんならかまいません」
「当然気をつけるけど、子供ができる可能性もあるんだよ」
「はい。生みます」
瀬田は下を向き、一生涯で一番ながーい、ため息をついた。
「君は、まだ、未成年でしょ」
何とか彼女の考えを改めさせる(本音の本能の部分では、据え膳を戴いちまえよ、だったが)ために最後に言うセリフが、30も過ぎ言葉を操る仕事をしているくせにこれしか思いつかないのが情けなかった。未成年で経験することなどざらな現代において、この言葉は陳腐以外の何物でもない。最終的には実力行使で逃げるしかないのか、とまで思い詰めていた瀬田だったが。
「そうですね。それじゃあ、他のことにします」
あっさりと刃を鞘に納めてしまったことに驚いて、安っぽいお笑い芸人のようにずっこけそうになった。
「あ、ああ、そう。うん。それがいいと思うよ。で、他のことって?」
彼女といると、とてつもなく心臓が鍛えられるか、弱って早死にするか、どっちだろう…などと瀬田が悩んでいることなど知る由もないせつかは、小憎らしいほど動揺の色が見えない。
「はい。そろそろ、岩戸さんじゃなくて、下の名前で呼んでください」
「名前?」
「もしかして、お忘れですか?」
「いや、覚えてるけど。…それでいいの?」
「はい。それでいいです」
さっきの爆弾に比べてあまりにも可愛らしいお願いで拍子抜けした瀬田だったが、どこか緊張した面持ちのせつかを見てはっとした。SEXうんぬんのくだりは名前を呼んでもらうための捨て駒だったと気づいたからだった。
そのことに気づいてしまえば、こちらに怖いものなどない。逆にちょっとした悪戯心がむくむくと頭をもたげてきた。
椅子から立ち上がり、真向かいに座っているせつかの後ろに回り込む。何事かと振り向こうとするせつかの動きを、瀬田は両手で封じた。