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「あっちいなぁ。」
真夏の炎天下での営業活動ほどつらいものはない。遠方の得意先ならエアコンの効いた車で行くこともできるが、近隣の場合はどうしても歩いた方が効率がいい。俺の担当している得意先は近隣が多いため、どうしても歩きになることが多い。歩くことはそれほど嫌いではないが、こう暑いとやってられなくなるのが本音だ。
「のど、渇いたな。」
立ち止まって周りを見渡すと、あたりにはエアコンの効いた喫茶がいくつか見えた。中では涼しい顔をしてコーヒーカップを口に運ぶ気ままな年金暮らしの老人の姿や、旦那の苦労も理解しようともせず近所の噂話に花を咲かせているお気楽主婦の姿があった。
涼しい場所で冷たいものでも飲みながら棒になった足を休めようかとも思ったが、この不景気で収入の減った財布から昼食代にタバコ代、それに飲み物代は結構厳しい。そこで最近は、公園のベンチに座って自販機の冷たい飲み物で涼を取っている。
(この辺だとあそこの公園だな。)
照りつける太陽を睨みつけながら、暑さでボーっとしている頭を回転させ、このあたりの地図を思い描く。
俺の頭の中には営業先の近くの公園がすべてインプットされている。どこの公園でもいい訳ではない。当然ながら人目につかなく、かつ、ベンチの側に木陰があり適度に風の通りがあり涼しいところでなくてはならない。
額の汗をぬぐいながら、俺は5分ほど先にあるお目当ての公園へと足を速めた。
公園へと向かう道すがら、かさついたのどを潤す冷たい飲み物を購入することにした。
実はこの近くには不思議な自販機が存在する。1本が80円という価格で全ての飲み物が購入できる自販機なのだ。つい最近見つけたのだが、別に毒が入っているわけではない。ただ、見たこともない銘柄の飲み物ばかり売っているというだけだ。
確か、この先の路地を曲がったとこだったはず。俺はズボンのポケットから財布を取り出しながら、路地を左に曲がろうとしてそのまま足が止まった。
自販機の前に珍しく先客がいた。いや、問題はそんなことじゃない。問題だったのは、その先客が長く会っていなかった俺のおやじだということだった。
おやじはわずか数メートル先にいる俺の存在になどまったく気づく様子もなく、熱心にじっと目の前の自販機を見つめていた。何を買うのか決めたのだろう。胸ポケットからあせて黒くなった二つ折りの財布を取り出し、その中の小銭をおもむろに自販機に入れた。
がた、ごととん。
狭い路地裏に音が響き渡る。落ちてきた飲み物をそのままに、親父はつり銭を財布に戻した。そして、しばらく財布を眺めていたかと思うと、くたびれた財布を大事そうにしまいこみ、取り出し口に落ちた缶を手に去って行った。
俺はしばらく動けずにいた。
おやじはまだ持っていたのだ。あの財布を・・・。
俺は公園のベンチで思い返していた。あれからもう10年にもなる。そのことに俺自身、ひどく驚いていた。
おやじがいまだに持っていた財布。あれは、俺が就職して始めてもらった給料で買ったものだ。おやじには黒い革の財布を、おふくろには茶色の革のバックを選んだ。生まれて初めての両親へのプレゼント。おふくろは涙を流して喜んでいたが、おやじは顔を背けたままそっけなく礼を言っただけでいつもと何ら変わらなかった。
それから2ヵ月ほど過ぎた頃だっただろうか。俺の周りには次々と色んなことが起こった。
まず、おやじのリストラ。30年も勤め上げた会社をあっけなくクビになってしまった。人間落ちていくのは坂道を転がるよりも早い。威厳のある今までのおやじはどこにもいなくなってしまった。
不幸というものは続くものだとつくづく思う。その次に起こったのはおふくろの死。そんなおやじをいつもと変わらず、いや、それ以上に支えていたが、やはり無理をしていたのだろう。家計を助けるためにと働いていたパート先で脳溢血により倒れ、そのまま帰ることはなかった。
俺も働き出したのだからおふくろが身を粉にして働く必要などこれっぽっちもないはずだった。でも、おふくろは俺に頼ることなど一度もなかった。俺が生活費の足しにと毎月渡していた金は、そっくりそのまま俺名義の預金口座に振り込まれていた。
おふくろがなくなってほどなくした頃、俺に転勤命令が出た。急な話だったが、俺は引き受けた。おふくろもいなくなってしまったあの家で、ふぬけたおやじと一緒に暮らすことに耐えられなかったからだ。おやじはおふくろの葬儀にさえも出ることなく、ずっと部屋に閉じこもり続けていた。俺が家を出るときもついに一歩も部屋から出ることはなかった。
その後数年間、新しい場所で俺はがむしゃらに働いた。成績も上がった。女もできた。毎日が充実していた。ただ、おふくろの墓参りに帰ることはあっても、実家に足を踏み入れることはなかった。
そして去年、転勤で再び生まれ育ったこの土地に俺は戻ってきた。会社から電車で30分ほど行けば実家だというのに、俺は会社の近くに部屋を借りた。実家には一度も顔を出さず、もどってきたという連絡さえしなかった。
いつぞや風の便りに、俺が家を出てしばらくしておやじが警備会社で働いているらしいとは聞いていたが、あの服装を見る限りまだそこで働いているのだろう。
「それにしても、まだ、持っていたのか…。」
チラッとしか見えなかったが、確かにあれは俺が買った財布だった。ただ、あの時とは違い、えらく使い込まれている感じがした。確か色は茶だったはずだが、手垢のせいか黒ずんでしまい、心なしか端がぼろぼろになっているように見えた。
ポケットから自分の財布を取り出してみた。俺の財布は今年買ったばかりだからまだ革の新しい匂いがしている。社会人になって10年になるが、俺は財布を毎年買い換えていた。俺の中で財布なんてモノは1年で使い捨てるものだった。
そういえば、おふくろも何年も同じバックを使っていたから、初任給でバックを買おうと思ったんだっけ。俺は今さらながらにそのことを思い出していた。
飲み干したジュースの空き缶をゴミ箱に投げ入れる。時間は5時13分。今から会社に戻れば定時に上がれる。デパートは7時まで営業しているから十分間に合うはずだ。
俺は胸ポケットから携帯を取り出し、10年来登録しておきながらかけることのなかった電話番号に電話した。
「はい。笹谷でございます。ただ今留守にしております。ピーっという音の後にお名前とご用件を入れてください。」
10年前、生きていたときと変わらないおふくろの声が流れる。その後にメッセージを録音する。
「おやじ、俺。今日、家に帰るから。じゃあ。」
おやじには財布、おふくろには使ってもらえないけどまたバックを買うか。
ふと空を見上げると、気の早い一番星があのときのおふくろの涙のように光っていた。
= Fin =