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ある日の昼下がりだった。いつもなら、いや、「薔薇色」を開けていたときなら、この時間はクリスと二人で他愛もないお喋りでもしながら、自分が作った新作のお菓子を手に紅茶でも楽しんでいただろう。でも、今は、一人だ。
クリスがいないため店を開けることはできないが、毎日掃除やなんやかやと店に出ていた。そうでもしないと、余計なことを考えてしまうからだ。今頃、クリスはどうしているだろうか。シャーロックに泣かされてはいないだろうか。むしろ、悪意を持った誰かに。などと、そんなことばかり考えてしまうのだ。しかし、そうはいっても、クリスはあれで芯がしっかりしているから意外と大丈夫かもしれない。むしろ、考え込んでしまうのは自分のことだった。
万が一にもクリスとシャーロックが一緒になったとしたら店は?そうならなかった場合、クリスはこの場所でいられるだろうか?どちらにしても、ここ、リーフスタウンヒルで店を続けていくことは出来ないだろう。そうなれば、この街から出て行かなければならない。あの人からも、離れてしまうことになる。
いつも髪のどこかを跳ねさせたままで、眼鏡の奥から優しく見つめるイアンの顔を思い出しかけて、パメラは大きく首を振った。
「私らしくないわ」
つける必要のない帳簿を開いたままで、パメラは一人呟いた。
諦めて帳簿をパタンと閉じると、扉の向こうの通りで馬車が止まる音が聞こえた気がした。
いつもならお客様かもしれないと、そばの鏡で自分に乱れがないか確かめるのだが、よくよく考えるとそんなことがありえるわけがない。思わず鏡の前で髪の乱れを整えようとした自分に苦笑した。
しかし、いつも客がやって来るときと同じように、足音が少しずつ扉に近づいてくるのが聞こえた。お得意様にはしばらくお休みすると手紙を出したのだが、もしかすると漏れがあったのかもしれない。パメラは素早く鏡で身だしなみを整えた。
扉をノックする音がしたと思うと、扉が静かに開かれた。パメラは用意していた言葉を口にした。
「いらっしゃいませ。と言いたいところなんですが、しばらく休業しておりますの。申し訳ありませんが…」
笑顔で応対していたパメラの笑顔が止まった。扉を開けて入ってきたのは、女性客を相手にドレスを仕立てる「薔薇色」に不似合いな男性だったからだけではない。その男の顔に見覚えがあったからだった。
「アントニーじゃない!どうしたの、一体」
彼はシャーロックのロンドンでの従僕である。今頃、クリスを両親に紹介すべく領地のランベスへ向かったシャーロックと行動を共にしているはずである。こんなところにいるとすれば、何かあったに違いない。もしやクリスに何か、と心配そうな表情で駆け寄るパメラに、アントニーは彼女の気持ちを察したらしい。挨拶もそこそこに「お二人は大丈夫だよ」と告げた。
「なら、どうして」
パメラの言うことはもっともである。今は大丈夫でも、今後いつ何があってもおかしくないのだ。シャーロックには慣れた場所でも、クリスには、敵の本拠地というには大袈裟かもしれないが、味方のいない場所である。事情を知る味方と言ってもいいアントニーだけでも、そばにいなければだめではないか。パメラの口調には、そんなアントニーを責めるような響きがあった。
しかし、アントニーはそんなパメラの様子を気にかけた風でもなく、急いだ様子で被っていた帽子を外した。
「パメラ。君にも一緒にランベスへ行ってもらいたいんだ」
パメラは一瞬、訳がわからずぽかんとした。それにも構わず、アントニーは先を続けた。
「クラウドさんとも話したんだけど、ミス・クリスティンお一人ではきっと色々大変だと思うんだ。もちろん、シャーロック様も俺も出来る限りは手助けするつもりだけれど、男では出来る範囲も限られてるし。それに、シャーロック様も今はかなり立場が微妙で。ああ、いや、そんなことじゃない!とにかく、君が来てくれれば、ミス・クリスティンもきっと心強いと思うんだ。ただ、場所が場所だから、無理にとは言えないんだけど」
最後のほうはどこか勢いがなくなりながら、それでも一気にアントニーはそう言った。
彼の言葉を聞きながら、パメラの心はとっくに決まっていた。どうせ、考え込むのは性に合わない。決めれば早いのが彼女の良い所だ。
「わかったわ。支度があるから、そうね、15分、ううん。30分待ってもらえるかしら」
「えっ?いいのかい?」
「当たり前じゃない。そのくらいの時間、大丈夫かしら」
「あ、ああ。全然大丈夫だよ。何か手伝うことはあるかい?」
「特にはないわ。その辺で座って待ってて」
パメラは持って行く物を頭に思い浮かべながら、スカートの裾を翻して踵を返した。
クリスがシャーロックと彼の両親に会いに行くというときに、彼女が着れそうなドレスを幾つか見繕って持たせたが、あれだけでよかったのかと思っていたところだった。相手はあの英国中で有名な名門ハクニール家なのだ。着飾り過ぎても足りないかもしれない。それに何より、ここ最近、見るたびに綺麗に華開いていくクリスを、誰よりも綺麗に仕立て上げたい。シャーロックのためでなく、大好きな彼女のために。
誰よりも彼女に幸せになってもらいたいと思っているのは、シャーロックでもリンダでもなく、自分だと、パメラは思っていた。
「あ、そうだ」
部屋から出ようとするとき、パメラはふと思い出して、後ろを振り返った。
「ありがとう、アントニー」
思いがけない幸運を運んできてくれたアントニーに向かって、パメラは極上の笑顔を向けた。「いや、俺は何も」と言いながら、顔を少し赤くして下を向く彼を見て、パメラはドレスを置いてある部屋に向かった。
イアンの顔が思い浮かびそうになったが、無理やり心の奥底に押し込めた。
= Fin =